音楽とは何のためにあるのか?

おはようございます、今日は著作権制度の日です。
色々と議論が深まっていくべき分野です。

物流等と新しい技術の流れについてお話をしています。
科学の反省として、主観的世界を省みる動向について。

いま、とある音楽に関する本を読んでいます。
まだ最初の方だけなのですが、その中において

・原初において音楽というものは単なる演奏形態を問うようなものではなかった
・数学などと共に宇宙的な調和を学んでいくための大切な学問の一つだった

というような指摘がなされています。
現代教育における音楽の取り扱いとは大分異なり、それを学ぶことは世界の成り立ちについて学ぶくらいの意味合いであったことが窺い知れます。

やはり近代科学に対する反省点として、あらゆる分野が小間切れになってしまい、より大きな視座から学を問うという姿勢が失われています。
科学でも学問でも良いのですが、そもそもがなんのために始まっているのか?ということが放置されているようにも思います。

音楽から世界、宇宙を探るというのは、もっともシンプルで、かつもっとも根源的な科学的姿勢だと言えるのではないかと思います。
その一方、人間は芸術というツールについて、もう一つの使命を与えています。
そう、主観性の問題です。

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科学者からの提起

おはようございます、今日は自然公園の日です。
町中にもポッカリと緑が多い場所がありますね。

物流等と新しい技術の流れについてお話をしています。
新しい技術に排除されないために、自分自身を探求することが必要なのでは?と提起しました。

実はこの主観性の問題については、新しい技術における当事者である科学者と呼ばれる人の中からも問題が提起され始めています。
ずばり、これまでの科学という手法に関する反省です。

これまでの科学的手法では、事象についてどこまで客観的に捉え、そうやって体系立てることで成立をしていました。
逆に言えば、客体化できない事象については「エビデンスがない」といった文言を用いて、排除する手法が中心となっています。

しかし、この手法においては絶対的に放置されてしまうものがあります。
それが主観的世界、少し言い換えるならば科学者自身です。

何らかの研究対象について、その科学者が何を感じ、どのような情動が生じて、それによりどのような反応が起こっているのか。
この部分に関して、これまでの科学的手法は絶対的な隔絶をもたらしています。

しかし、本当にそのような手法で到達できるものが適切なのか?ということについて、一部の科学者から問題が提起され始めています。
個人的には、科学と呼ばれる手法が数千年くらい遅れて武術や芸術の世界に追いついてきたように思います。

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自分自身の開拓

おはようございます、今日はビリヤードの日です。
一時期、好きで友人とよく通っていました。

物流等と新しい技術の流れについてお話をしています。
人工知能と人間の絶対的差異について確認をしました。

この「自分がどのように感じているのか」「自分はどのように世界をみているのか」という部分こそが人工知能に絶対侵食されない部分であることこそが、私達がこれから何をしていくべきなのかを確認するための重要なところなのではないか、と。

少し言い方を変えると、私達が何よりも踏み込んで探求すべきなのは、客観化できる何かではなく、どこまでも主観的なものであり、つまり自分自身を深く識っていくことこそが一番大切なのではないでしょうか?

通常、この手の文章に関しては自己啓発的な意味合いで書かれていることが多いように思います。
しかし、別に精神論とか人間的成長がウンヌン、ということではなく・・・
客観的に取り扱うことができる事象に関して言えば、私たちは早晩人工知能に追い抜かれ、もう二度と追いつけないところまで放置されることが目に見えています。
つまり、どこまでも客観的に取り扱うことのできないものを探求しておくほうが、生存戦略として適切なのではないか?というかなり実利的な意味合いからの提起です。

実はこのことは、人工知能というものを生み出した科学と呼ばれる分野においても反省されていることだったりします。

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主観的世界

おはようございます、今日はサイボーグ009の日です。
スピードこそが強さ、というのはあの作品辺りから始まったような。

物流等と新しい技術の流れについてお話をしています。
武術稽古で聴いた、体の軽重を感じている自分の主観について。

この「自分が感じている体の重さ」と「体重計が示す体の重さ」が一致しないという話をどのように解釈するかによって、ありとあらゆる物事に対する姿勢が決まってきます。

現在の人工知能や自動運転と呼ばれる技術は、その制御について体感や主観というものは排除されています。
むしろ、自動運転に関していえば人間の体感や主観を排除した方が事故の確率が下がった、という話すら出てくるくらいです。
平たく言えば、人間のもつ主観性は雑味であり、邪魔なものであるとすら判断されているように思います。

そして、こここそが人工知能に絶対侵食されない、最後の不可侵領域なのではないかと。
人工知能がどれだけ発展し、こちらの検索単語を先読みし、位置情報から役立ちそうな情報を送りつけ、私が購入しそうなものを押し付けられようとも・・・
いま、この瞬間に私が自分をどのように感じ、どんな衝動を持ち生きているのか?ということは絶対に踏み込まれることはありません。
統計的な手法により、次の行動がある程度推測されるとしても、それは結果からの逆算に過ぎません。
本当に私がどう感じているのかは、解読されようなありません。

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体がだるい、重い、とはどういうことか?

おはようございます、今日は光化学スモッグの日です。
Aメジャーのお知らせ音はどこでも一緒なのかしら?

物流等と新しい技術の流れについてお話をしています。
人間が機嫌や体調によって大きく左右されていることに触れました。

これは、先日中国武術の稽古で先生が言っていたお話です。
例えば、朝起きた時に「体が軽いor重い」「だるい」といったことを感じることがよくあると思います。
こういった好調不調の波がまったくない人はいないでしょうし、我々にとってはとても自然なことかと思います。

しかし、ここで一つ問題があります。
体が重いと感じた日に体重計に乗ったときと、体が軽いと感じた日に体重計に乗ったときの比較です。
余程急激に物理的体重が変化したのでもなければ、重く感じる日も軽く感じる日も、体重計は同じような数字を示します。

しかし、私達が主観的に感じている体の重さには、明らかな差異があります。
この場合、私たちはどちらを指針にして行動すれば良いでしょうか?
「重く感じようが軽く感じようが、60キロは60キロ、だから何も違いはない!!」と、私達が感じている重さ、軽さを無視するのが正しい姿勢なのでしょうか?

先日の稽古で、先生は「疑うべきは体重計です」と断言していました。
その体重計が間違っているか、あるいは低機能(私達が感じている軽重を表示できない)だと考えるべきだ、と。

実はこの辺りにこそ、人間が人間(生命)足り得る大切な部分があるのではないか?と感じています。

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